保坂和志 『季節の記憶』に関して

『季節の記憶』は、私の好きな小説の中で異色の存在である。私は、非現実的な事象を描きながらも、誰もがどこかで共感するような真理を含む作品に惹かれる。例えば、夏目漱石の『夢十夜』や川端康成の『片腕』、筒井康隆の『家族八景』などが特に好きだ。それぞれ、夢、「片腕を貸す」という現実にはあり得ない出来事、超能力を題材にしながらも、人間の感情や心理が描かれている。
しかし、この『季節の記憶』はそういった作品ではない。父と息子、近所に住む便利屋の兄と妹が、ただ淡々と歩いたり語ったりしている。事件といえば、ナッちゃんが引っ越してくること、二階堂が恋人と別れたことくらいだ。続編の『もうひとつの季節』においては、猫の茶々丸と離れ離れになるかもしれないという危機が到来するが、これも未遂に終わる。この作品には、非現実的な事象は特に現れない。ところが、何てことない日常なのにも関わらず、どこか夢を見ているような不安定さを感じる。それは、彼らの平穏な生活が、いつかは終わりを迎えることが明らかだからだと思う。平和で静かな毎日は、クイちゃんが成長すれば、あるいは美紗ちゃんが結婚すれば、全く別のものになってしまう。そんな終わりの予感が、読む者を不安定な場所で漂わせる。そのため、「時計は誰も見てないときに動いてる?」のようなクイちゃんの抽象的な問いに一緒に思考を巡らせるものの、その問いかけの一つ一つに沈み込むことはない。ふわふわと浮遊しているので、考えすぎない。難しい話題でも、夢を見ているように何だか心地よいのだ。これは、冒頭の私の好きな作品の逆であると思う。普遍的な話題や人間の心理を話題にしつつ、非現実感をもたらしている。このような作品は珍しい。まさに季節の記憶といえるような素朴な日常に、そっと身を寄せ、日なたで夢を見る。そんな心地よい、不思議な読書体験だった。